季節の変わり目に・・・徳を積む?
夜明け前、気がつくと虫の声が聴こえてくる。秋の虫だ。
明け方の空気感といい、日中の暑さからは想像し難いが、たしかに秋が近くまできている。
季節の移り変わりを実感した。
夏、ジージーと鳴いているセミたちの亡き骸も所々で見かけることがある。
今朝、マンションのベランダで1匹のセミが仰向けになっているのを見た。
動かなさそうだし、もう死んでるのだと思い箒と塵取りですくって捨てようとした途端、仰向けのまま手足をバタバタし始めた。「まだ生きているんだ。」
いつも目にするセミと同じ1匹のセミなのだが、こうして1対1で向き合うと何か違う特別なものを感じてしまった。
仰向けではなく、ちゃんとした向きに直した。
「セミを触るのは何十年ぶりだろう」
向きを直してもセミは体を少しでも動かすと、またひっくり返ってしまう。
明らかにもうすぐ死んでしまうセミに違いないのは分かる。
うちはマンションの1階で庭やベランダにたくさんの植物を置いている。なので庭はアリやダンゴムシの絶好の住処となっている。また雀も堂々とベランダの内側まで入ってくる。そのような場所で弱っているセミがいれば、すぐに餌食いされてしまうのは想像できる。
先に書いたが、そのセミに対して私はもうすでに特別なものを感じていた。
「放っておけない!」
弱っているセミをもう一度ちゃんとした向きに直し、日の当たらない涼しい場所へ移動させた。目につかないようにベランダ用スリッパで姿が隠れるようにした。
その後は、洗濯物を干すときや打ち水をするのにベランダへ出るとき、セミが生きているかどうか確認をしていた。
だが数時間後、洗濯物を取り入れるとき同じように確認してみたら、その時はどうやら命を全うした後のようで、仰向けで手足も縮こまり塊になっていた。「とうとうこの時が来たのか。」「先日の台風も乗り越えて、最後までよく頑張ったね」
直ぐに庭の一角の土に穴を掘り、埋めてあげた。「合掌」
はたと気がついた。この場面は・・・
2年前も冬が訪れようとしていた時に、同じようなシチュエーションでバッタが現れたことがある。
「こんな時期にバッタがベランダに飛んでくる?!」寒い季節にバッタがいることに驚き、とりあえずバッタについて無知な私は冬越しをしに来たのだと思い、寒くないようにバッタを箱の中に入れ、エサになるようなものを与え様子見していた。だが冬越しではなく最期の場所を求めて現れたことを知って、実際にそうなった時、最後は土に埋めて還したのだった。
セミを埋めた場所とほぼ同じ場所に。
季節の変わり目、虫たちが瀕死の姿をもって私の前に現れるのには何か意味があるのだろうか?
1度ならず2度までも虫の最期に関わる状況が作られるとは・・・
「ありがたいことに、健康な身体をもってして命のある私は時間を無駄にしないよう懸命に生きよう!!」そう考えるまめこだった。
今日が人生で一番若い日
葉の隅に輝く一滴の雫にも、ダイヤモンドの美しさがある(ロバート・バーンズ)